創刊当初は、グローバルに通用するVOGUEのフィロソフィー、VOGUE is VOGUE を日本人スタッフに伝えるために海外から何人もの優秀なスタッフが送り込まれ、外国人×日本人の混合チームによる立ち上げはVOGUEらしく成功した。いくつかの目標がクリアーされていくと、徐々に外国人主導から、日本人主導へとシフトする気運が高まっていった。最初のアクションは、ファッションディレクターの交代、イギリス人のキム・ストリンガーが本人都合で退社することになり、国内外で候補者の選考が行われた結果、日本のマーケットを把握する塚本香(※)が、ファッションディレクターに就任した。
創刊3年目を迎える頃、次は日本人による日本人のための『ヴォーグ ニッポン』を打ち出すことができる、強いリーダーへバトンタッチすることになった。
マガジンハウスで「ブルータス」「カーサ ブルータス」の編集長を兼任し、出版界とマーケットに多大な影響を与えた斎藤和弘が、2001年日経コンデナストの社長に選任された。メディア側からファッション界に、新ビジネスを提案、展開できる人材であることが、選任の最大のポイントだったという。その1年後の2002年1月、日経新聞社の撤退により、日経コンデナストはコンデナスト・パブリケーションズ・ジャパン(現コンデナスト・ジャパン)と社名を変更した。
日本人へダイレクトに届く雑誌作りがスタートすると、新社長は、スタッフの刷新に着手した。『ヴォーグ ニッポン』のローンチ以来VOGUE is VOGUEの教育係として大役を果たしたクリエーティブディレクターのデビー・スミスを帰国の途に着かせ、彼女が率いたデザインチームを解体した。更に、斎藤社長は編集者としても采配を振るうようになり、VOGUEの歴史の中でも珍しい男性編集長に着任した。ADは、平凡社時代から気心の知れた、CAPの藤本やすしに任せ、デザインチームを再編成した。
斎藤編集長時代、彼をサポートし続けたのが現『ヴォーグ ジャパン』の渡辺三津子編集長だ。当時はファッション・フィーチャー・ディレクターとして、モードの読み物の責任者だった。
「斎藤さんは、ヴォーグを毎号驚きのある雑誌にしようとしました。特に表紙デザイン、表紙コピーには、何よりもまず驚きを求めました」(渡辺編集長)
リニューアルの狙いは、日本発のオリジナルコンセプトによるインパクトを『ヴォーグ ニッポン』に出すことで、ファッション業界と読者に強い刺激を与え、『ヴォーグ ニッポン』の存在を知らしめることにあり、部数を延ばすことよりその戦略が優先された。知名度が上がれば、部数は自然と伸びてくるという自信があったからこそ、できたドラスティックな改革だった。
斎藤編集長の改革は広告主に注目され、創刊当初は様子を見守っていたクライアントも、3年目にはヴォーグに出稿すると間違いないと判断するようになり急増した。
表参道を大人の街にする都市計画の一環で、ルイ・ヴィトン、クリスチャン・ディオール、プラダ始め、ラグジュアリーブランドのメガストアが次々に建設されていった。2000年代半ばには、ITバブルに始まり、世間では90年代のバブル崩壊前夜を思わせる、狂乱の時を迎えていた。
※塚本香は、現在ハースト婦人画報社の「エル ジャポン」編集長
5/12に続く。