ミハラヤスヒロ(MIHARA YASUHIRO)のデザイナーである三原康裕が、ロンドンコレクションに発表の場を移した心の内を語ったインタビュー。
前編「三原康裕が語る“パリからロンドンへ発表の場を移した心の内”」はこちらから。
後編では、彼が見据えるファッションの未来を垣間見ることができた。
ーー今回のコレクションは、会場もボーリング場でしたし、単純に“楽しさ”や“奔放さ”というのを感じます。
スタッフにもよく言うのですが、トレンドをああだこうだ言う前に、単純に「洋服は好きか?」と。僕も昔はただただ洋服が好きだったから。今は、当時その洋服がなんで好きだったのかということを再確認する時期に来ているんだと思います。40歳になって、これまで自分が作ってきたものが、自分にとっての大きな先生なんです。これまで作ったものによって、自分をより明確にしていきたい時期なのかな。
そこは芸術の世界でも同じで、自分が当時理由もなく好きだった表現やその手法を、ある程度時間が経った後で振り返ることで客観的に分析できる。それをファッションという、人が日常的に使うものの中でどうやって表現していくか。もう一度、原点に立ち返る時期に来ていると思いますね。
ーーそういう“立ち返る”ことも含めて、新天地であるロンドンへ移ったということでしょうか。
パリではある程度の“位置付け”をもらってきたがために、ロンドンに移ることで、そういう立場を少なからず失うとは思いました。しかし逆に、得るものもまた大きいであろうと。
これも先ほどの直感的な部分と繋がってくるんですが、今の自分が楽しいと思える方を選び取っているというか。パリのコレクションオーガナイザーからはすごく好かれていて、スケジュールも良いところに入れてもらってたんですけどね。ですが、ロンドンもウェルカムなムードで、好きな時間で良いよって言ってもらえました。
ーー今、文化やアートの世界では、直感的な選択やエモーショナルな表現を再評価する気運が高まってきていると思います。斜に構えずに、いいものを素直にいいと言える時代になってきたのかなって思います。
文化も人も、時を経て、賢くなってきたんだと思います。知性というか知能というものは、抑えられてしまっているかもしれないですが、言葉にできないものを、しっかりと感じ取ろうとする姿勢は昔よりも強くなったと思いますね。
ここ最近のファッションに対しても、同様のことが言えます。起爆剤となるのはランウェイかもしれないですが、今の若い子たちはもっとヒストリカルに、もっとストリート的になってきています。ランウェイをさらに進化させたいという自由な感覚や発想を持っていますよね。
ーーインスタグラムの登場も大きいでしょうね。
ファッションってある種、直感的であり感覚的であることが重要だと思っています。「かっこいい、かっこ悪い」が大前提として存在するから面白いんです。昔はすごく論文的なアートが多くて、なるほどなって思いながら、悩み考えることもありました。でもやっぱり、パッと見て「美しい」とか、単純に「素晴らしい」ものは、いくら言葉を尽くしても表現しきれないですから。
ーー世の中がこれだけ複雑で、混沌としてきたからこそ、アートやファッションは“直感的”で“エモーショナル”なものを求めているのかもしれませんね。
世界がこの先どうなっていくかは、まったくわかりません。いちデザイナーとして、今後の動向には注目していきたいです。
僕はファッションで、世界を“見直す”ことができると思っています。ファッションで、世界を再提示して見せると言いますか。もう少し進んだ言い方をしますと、それをポジティブに昇華できるのがファッションの力だと思っているので。ただ僕は政治論者ではありません。だからあくまでも、世界に対するメタファーとして、ファッションを通して表現を続けていきます。
ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)やアレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)を引き合いに出すのが、正しいかどうかわからない。彼らが常に理想を掲げて、“性差”から解き放たれた自由な未来を思い描く一方で、三原は現在のファッションや世の中のムードに対して一石を投じるようなコレクションを打ち出した。しかし、リアリストに徹したわけでもない。
彼は、十八番である“再建築”を駆使することで、過去をリミックスし、“新しいもの”として提示したのだ。
結果、自由で伸びやかな、ある種牧歌的なアイテムが数多く見られることとなった。それは“ポジティブのリアリズム”とも言うべき、経験と研鑽に裏打ちされた、ミハラ流の未来と言ってもいいだろう。ルック一つひとつを目で追うだけで元気が出て来て、前向きな気持ちにさせてくれる。彼はロンドンで、純粋に“洋服”が好きだった頃の、反骨心あふれるティーンエイジャーに戻ったのだ。じゃあ、これから先のコレクションはどうなるだろう。
ミハラヤスヒロが描く未来は、“性差の解放”よりも先にあるような気がしてならない。つまり、“個性の解放”がそこにあるとすれば、性差も階級も関係なく、誰もが自由にその魅力を享受できるような服が生まれるはずだ。その未来ではもはや個性的であることにこだわる必要はない。個性的であることも、個性的でないことも、等しく扱われる未来だ。今回のロンドンでのコレクションは、新たな道徳心を持った未来の世代へと繋がっている。