作家のホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)は1899年8月24日生まれ。アルゼンチン・ブエノスアイレス出身。本名はホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス・アセベード(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo)。1986年6月14日逝去。
弁護士の父のもと、裕福な家庭に生まれ育つ。読書家だった父の影響もあり、少年時代には空いた時間のほとんどを読書に費やしていた。ボルヘスが15歳の時、父の目の治療が必要となり、一家はスイスに移住。ボルヘスはカルヴァン学院に入学し、以降の7年間をヨーロッパで過ごすことになる。
やがて、第1次世界大戦を経て、ボルヘスはアルゼンチンに帰国する。そこで目にしたのは、驚くべき成長を遂げたブエノスアイレスの街並みだった。この感動を表そうと、彼は23年に処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を発表。作家としてのキャリアをスタートさせる。その後もボルヘスは詩集やエッセイを次々と刊行。そのうちの一つ、『アルゼンチン人の言語』はブエノスアイレス市民文学賞の第2席を取得し、彼の名前は徐々に世間に広まっていく。
その一方で、20代の後半からは短編集にも挑戦しており、『男たちは戦った』や『バラ色の街角の男』『汚辱の世界史』などを発表していった。38年には事故で1ヶ月ものあいだ生死をさまようが、これがきっかけになったのか、ボルヘスは短編小説を手掛けるようになる。この頃に書かれた作品をまとめたのが、42年に発表された作品集『八岐の園』だった。短い中にも人知を超えたエピソードが凝縮された彼の作品は、後の文学手法“マジックリアリズム”の一大ブームの中で高い評価を受けることになる。44年に新たな9編を加えた『伝奇集』が発刊されると、これらの功績もあって、ボルヘスはアルゼンチン作家協会栄誉大賞を受賞した。
その一方で、当時のアルゼンチンではフアン・ペロン(Juan Peron)による独裁政権が樹立していた。これを批判したボルヘスは9年間勤めていた図書館を追放され、以降は地元の出版社で編集の仕事を任されるようになる。しかし、55年の革命によってペロン政権が打倒されると、ボルヘスは公立図書館の館長に就任。翌年にはブエノスアイレス大学の英米文学教授に就任している。
晩年を迎えるとボルヘスの作品は翻訳が進められ、世界中で高い評価を受けるようになる。61年には第一回国際出版賞を受賞。その後も彼の文学はマドニーナ賞、エルサレム賞、セルバンテス賞など様々な賞を受賞し、彼自身も各国の名だたる大学で名誉博士号を取得している。