作曲家のアントニン・ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)は1841年9月8日生まれ。オーストリア帝国・ネラホゼヴェス出身(現在のチェコ共和国)。1904年5月1日逝去。
肉屋と宿屋を経営する一家に生まれ育ち、小学生のときにヴァイオリンを学ぶと、次第に楽才を表すようになる。経済的に恵まれていなかったこともあり、両親はドヴォルザークに実家を継ぐことを願っていた。しかし、叔父などの説得もあって、57年に彼はプラハのオルガン学校に入学。卒業後は地元のカレル・コムザーク楽団でビオラ奏者となり、音楽家としてのキャリアをスタートさせる。62年には国民楽派の先駆者として知られるベドルジハ・スメタナ(Bedrich Smetana)指揮するオーケストラの楽員となり、その曲調に強い影響を受けることになった。
しかし、ヴィオラ奏者として活動する中で、ドヴォルザークは次第に作曲へと関心を持つようになる。このため71年にはオーケストラを退団。本格的に作曲家としての道を歩き始めると、73年に民族主義の思想を色濃く反映させた『山の後継者たち』を発表。当時は国民音楽運動が高まっていたこともあり、この楽曲でドヴォルザークは国内でも高い評価を受けることになる。翌年にはオーストリア政府の奨学金制度に入選し、彼は当時の年収をはるかに超える金額を手に入れた。
その後、ドヴォルザークは5年間にわたって、奨学金審査に作品を提出。そんな彼の才能に注目したのが、当時審査員を務めていたヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)だった。彼の紹介もあって出版された『スラブ舞曲集』はヨーロッパ中で人気となり、ドヴォルザークは作曲家として名の知られる存在となる。やがて、84年にスメタナが病没すると名実ともにチェコを代表する作曲家となり、イギリスやアメリカを訪れた際には自らオーケストラの指揮をとるようになった。
91年にニューヨーク・ナショナル音楽院の院長に就任するため渡米。そこで、ドヴォルザークは、後に彼の代表作となる交響曲第9番『新世界より』を発表する。93年に行われたカーネギー・ホールでの初演が大成功を収めると、これらの活動もあって、ニューヨーク・フィルハーモニーは彼を名誉会員に選定。アメリカにおけるドヴォルザークの存在を確かなものとした。
やがて、チェコに帰国したドヴォルザークは、プラハ音楽院で教鞭を取るようになり、01年には院長に就任。『ルサルカ』や『アルミダ』などのオペラを発表するが、04年に脳出血のため死亡。当時62歳だった。