各ブックストアがFASHION HEADLINE読者に向けて「今読むべき1冊」をコンシェルジュ。毎週木曜日は、アート・ブックショップ「NADiff(ナディッフ)」各店がオススメする1冊をご紹介。今回は東京・銀座のNADiff du Champ(ナディッフ デュ シャン)です。
■『Provoke-Between Protest and Performance』
本書は今年1月にウィーンにて開催された、「PROVOKE展」に合わせてドイツのSteidl社から発行されたカタログである。当展覧会は、ウィーンに続いて、スイスのヴィンタートゥール、パリ、そしてシカゴの美術館へ巡回予定である。
『プロヴォーク(Provoke)』とは、1968年に創刊された写真同人誌の名前である。ひいては、その創刊者たちやその周辺の作家が表したその作風を「プロヴォーク的な」と言ったり、または彼らが活躍した時代を「プロヴォークの時代」と呼んだりすることもある。それは「思想のための挑発的資料」というサブタイトルに分かるように、「挑発」を意味する言葉だ。創刊者は、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦といった面々であった。そして、2号から参加することになる森山大道も、もちろんプロヴォークにおける主要な写真家である。わずか3号までの発行で廃刊となったにも関わらず、「プロヴォーク」という言葉は写真史に強烈に記憶され、いまなお議論や研究の対象となっている。一体彼らは、何に挑んでいたのか。
ベトナム戦争、キューバ危機、そして東大安田講堂事件を始めとする学生運動などが盛んに行われていた60年代から70年代の社会情勢において、写真はその役割を問い直された。写されたものは、本当に「リアル」なのか。もしくは、写真が提示する「リアル」とは一体何なのか。その場に行かずとも目撃することができる、世界中に共有される出来事の「イメージ」とそれに対応する「言葉」はもはや形骸化していた。『プロヴォーク』の総括集となった『まずたしからしさの世界を捨てろ』において、中平卓馬は、溢れる戦争の写真に対し不感症になっている自分や社会への違和感について、こう述べるのである。「それはおそらくこれらの膨大な写真が、みずから〈記録〉写真と名のりながらも、実は世界にまっすぐ眼をむけることなく、使い古した言葉による図式、戦争→悲惨→戦争反対にのってそれらの言葉をイラストレートすることしか望んでいないことに関連する」
本書に収められた写真はどれも、粒子が荒く、ピントはあっておらず、ざらついて、一体何を写したのやら判別できないものもある。いわゆる「アレ、ブレ、ボケ」と揶揄もされたその作風は、自分自身が世界を「見る」という行為を見つめ直した痕跡である。それは必ずしも、美しくピントがあっているものではない。決定的瞬間などでもない。日々流れていく風景を、横目に流し見、時にフラつきながら、時に何かに吸い寄せられ、そして中には忘れてしまうものも、記憶に残るものもある。それは、もはや「これ」と言葉で名づけることのできない残像なのである。
そのようにして世界を見るということ、そして写すということ、その行為そのものを問い直した写真家たち各々の戦いは、『プロヴォーク』にはじまり、それぞれの道へと分岐していく。通底していたのは、カッコつきの「リアル」への懐疑と挑戦である。当時にも増して、「それっぽい」写真や言葉によるイメージが増幅する現代において、当時の日本の写真家たちの戦いは、世界の目にどう映っているのか。
作品が収録されている主な写真家は、中平卓馬、東松照明、森山大道、高梨豊、北井一夫、細江英公、榎倉康二、荒木経惟など、挙げきれないほど。また寺山修司や赤瀬川原平など、『プロヴォーク』に近しかった芸術家たちも取り上げられ、写真のみならずプロヴォークに影響を与え、プロヴォークに影響を受けた界隈の作品まで見通すことができる1冊だ。
『プロヴォーク』の第一人者たちへのインタビューはもちろんのこと、当時の社会情勢にフォーカスしながら、海外の出版社による印刷とセレクトによってここまで結集した『プロヴォーク』を見直すことは、今もって現代における私たち自身の世界の見方を問い直す、新鮮な驚きになるはずである。
【書籍情報】
『Provoke-Between Protest and Performance』
版元:Steidl
判型:190mm×250mm/ソフトカバー/680ページ(写真点数600枚)
定価:1万240円